

「百姓一揆」は、江戸時代に農民が領主や代官の悪政や過重な年貢に対し、集団で反抗する運動を指します。
様々な百姓一揆が起こる中で、国最大級の百姓一揆とされた「三閉伊一揆」をご存知でしょうか。
今回は意外と知られていない三閉伊一揆についてご紹介します。
三閉伊一揆の流れや三閉伊一揆ゆかりの観光スポットも合わせてご紹介します。
歴史好きの方はもちろん、歴史が苦手だなという方に向けて分かりやすく解説するので、ぜひ参考にしてください。
そもそも一揆とは、江戸時代の百姓身分の小農民が団結して支配者に対しておこなう反抗運動のことです。
年貢の減免や悪役人の交代などを求めて、直訴や実力行使の強訴、逃亡などの形で行動します。
一揆の中でも、国最大級の農民一揆とされているのが三閉伊一揆(さんへいいっき)です。
三閉伊一揆(さんへいいっき)は、全国的には知名度が低くあまり知られていませんが、岩手県下閉伊郡田野畑村を中心に今もなおその歴史は受け継がれています。
「サンヘイ」とは人名ではなく地名のことで、三閉伊一揆(別名:三閉伊通り一揆)とは盛岡藩政時代に釜石を含む三陸沿岸地域で勃発した国最大級の大規模な百姓一揆です。
一度のみならず、弘化4年(1847年)と嘉永6年(1853年)の2度に渡り一揆が起こり、1万2,000〜2万5,000人もの農民が加勢したとされています。
一揆の始まりは、その厳しい生活にあったのではないかと言われています。
岩手県北東部に位置している三閉伊地方は、山間部で当時土地も豊かではなく夏には「ヤマセ」という冷たい海風に見舞われる地帯でした。
現在は広い土地や独特な気候を活かし漁業や農業、酪農などが盛んにおこなえわれていますが、当時は産業技術が乏しく暮らしていくのが精一杯でした。
雨とヤマセが続き、気温が上がらないため作物は育たない飢饉の年では、草木を食べ何とか生き延びている状況でした。
しかし領主である盛岡藩は飢饉に苦しむ農民達を一向に省みず、重税を課し続けました。
この状況を変えたいと立ち上がり、一揆の元を始めたのが、沿岸部でとれた塩を内陸部に運ぶ塩売り商人だった切牛弥五兵衛(佐々木弥五兵衛)でした。
そんな切牛弥五兵衛は、盛岡藩の重税を課すという行動はつまらないと考え、小〇(困るのダジャレ)の旗を掲げ一揆の中心人物となりました。
この小〇(こまる)の旗を掲げた一揆を弘化4年第1回目の三閉伊一揆(弥五兵衛の一揆)と言われています。
村ごとに人数を増やし遠野方面へ進軍した切牛弥五兵衛率いる農民軍に圧倒された南部軍は年貢の量や悪政を改善しすることを約束しました。
これに農民も喜びましたが、この約束は一時的なもので長くは続かず、盛岡藩の差し向けた刺客に襲われた切牛弥五兵衛は打ち首にされ生涯を閉じました。
弥五兵衛の一揆の後、年貢の減免、悪政の改善を約束した盛岡藩は切牛弥五兵衛が亡くなると同時に税を取り立てる役人を増やし、税の種類を増やし農民を追い込みました。
この状況を変えるべくして立ち上がったのが、田野畑太助(畠山太助)です。
田野畑太助率いる約1万6000もの農民は、代官所を襲い、鉄山、富豪の屋敷、酒蔵などを跡形もなく破壊し、仙台領を目指しました。
これが嘉永6年第2回目の三閉伊一揆(太助の一揆)と言われています。
農民の想いを代表して仙台藩に伝えた三浦命助により、仙台藩はその想いを盛岡藩に伝えましたが盛岡藩はその願いを聞き流します。
これに対し田野畑太助、三浦命助率いる農民はさらなる一揆を決意し、再び仙台藩へ向かう一揆軍とそれを食い止める盛岡藩の鉄砲隊の壮絶な戦いが繰り広げられました。
その後この戦いにより、盛岡藩の不始末が江戸へと伝わり、盛岡藩はようやく藩政を改めることを約束し、一揆は成功に終わりました。
全2回に渡って繰り広げられた百姓一揆の三閉伊一揆ですが、一揆前の作戦会議場所や集合場所として、田野畑村が使用されました。
国最大級の百姓一揆三閉伊一揆ゆかりの地田野畑村に足を運び、その歴史を感じたいという方も多いと思います。
道の駅たのはた「思惟の風」では田野畑の山の幸、海の幸をはじめ地元の魅力がたっぷり詰まった商品が揃っています。
お土産を買うのはもちろん、ファストフードや地元の方が考えた料理をたべることのできる食堂もあり、休憩にもおすすめなので、ぜひ利用してみてください。
また思惟の風では歴史を大切にし、切牛弥五兵衛らが掲げた小〇をモチーフにしたオリジナルのショップカードなどを作成しています。
旅の思い出にもなるので、ぜひ手に入れてみてはいかがでしょうか。
今現在も、歴史を受け継いでいる三閉伊一揆にゆかりある観光スポットを5ヵ所ご紹介します。
興味を持たれたスポットにぜひ足を運んでみてください。
三閉伊一揆最初の集合地は、嘉永6年2回目に起こった三閉伊一揆の最初の集合場所です。
北山崎や机浜番屋群、机浜番海水浴場など、周辺観光スポットと一緒に周ってみてはいかがでしょうか。
住所: | 〒028-8402 岩手県下閉伊郡田野畑村池名 |
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連絡先: | 0194-33-2210 |
アクセス: | 田野畑駅車で約15分 |
HP: | https://www.nihon-kankou.or.jp/iwate/034843/detail/03484af2170019186 |
百姓一揆顕彰碑は、大飢饉と苛酷な税に耐えかねた農民が結構した三閉伊一揆の指導者の象です。
誰の像かははっきりとしていませんが、三浦命助、切牛弥五兵衛、田野畑太助のうちの2人だと考えられます。荒々しい岩の上に立つ2つの像はとても立派です。
住所: | 〒028-8407 岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑 |
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連絡先: | 0194-33-2210 |
アクセス: | 田野畑駅車で約7分 |
HP: | https://www.nihon-kankou.or.jp/detail/03484aj2200024488 |
切牛弥五兵衛生家跡は弘化4年の1回目に起きた三閉伊一揆の指導者である、切牛弥五兵衛の生家跡です。
住所: | 〒028-8405 岩手県下閉伊郡田野畑村切牛 |
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連絡先: | 0194-33-2210 |
アクセス: | 田野畑駅車で約20分 |
HP: | https://www.nihon-kankou.or.jp/iwate/detail/03484aj2200023236 |
切牛弥五兵衛の墓所は、弘化4年の1回目に起きた三閉伊一揆の指導者である、切牛弥五兵衛のお墓です。
昔ながらのお墓で歴史を感じることができるでしょう。
住所: | 〒028-8405 岩手県下閉伊郡田野畑村切牛 |
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連絡先: | 0194-33-2210 |
アクセス: | 田野畑駅車で約20分 |
HP: | https://www.nihon-kankou.or.jp/iwate/034843/detail/03484aj2200025285 |
田野畑太助の墓所は、嘉永6年2回目に起きた三閉伊一揆の指導者である、田野畑太助のお墓です。
1回目の三閉伊一揆の指導者である切牛弥五兵衛のお墓の切牛弥五兵衛の墓所と比べて違いを見つけてみてはいかがでしょうか。
住所: | 〒028-8407 岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑 |
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連絡先: | 0194-33-2210 |
アクセス: | 田野畑駅車で約7分 |
HP: | https://www.nihon-kankou.or.jp/detail/03484aj2200025093 |
国最大級の百姓一揆である三閉伊一揆の概要や、歴史を受け継ぐゆかりの観光スポットをご紹介しました。
三閉伊一揆のゆかりの地田野畑村に訪れた際には、ぜひ道の駅たのはた「思惟の風」にお立ち寄りください。
海の幸や山の幸をはじめ、数々の地元グルメを取り揃えております。
アクセスもよく、お土産にもぴったりな商品がたくさんあるので、ぜひご利用ください。
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